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2006年03月21日

お散歩

今日はすっかり春らしくなったので、お散歩です。
皇居を一周する。

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やっぱり春はなんとなく浮かれます。
桜はつぼみだけど、
少し離れたところから、桜の木全体を見ると、
うっすらとピンクで、、、。

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野球もすごかったですね。

イチロー選手が出場する理由が、最初はよくわかりませんでした
WBCなんて、そんな大したゲームだとも思わなかったし、
他のプロ野球の選手も、メディアもそんな感じでした。

でも、彼が出場し、彼が動き出すと、WBCはなんだか違うものになった。 

韓国戦で負けたときに「吼えた」彼をみて、
なんだか忘れていたものを思い出したような気がしました。

「勝ち負けなんかにこだわらないよ」なんて
気取っている場合じゃないんだと。
 
頭の中で、この歌が流れた。

「勝っーてうれしい、花いちもんめ」
「負けーてくやしい花いちもんめ」
「隣のキューバ、ちょっとでてきておくれ」
 
要するにイチローのような人、
ああいう人は、理由なんかで出場しないんですね。
自分が出るという決めが、理由の全部なんですね。
そういう人がそこにいると、全部がそれになるんだと思った。
なんだか奇跡を見たような気持ちです。
 
ホント、
メキシコありがとう。
  

2006年03月16日

自分と自分以外のもの

自他分離的思考法、これについては、
以前ご紹介したことのある清水先生の『場と共創』によれば、、、

 ・・・・・・・
 
 自他分離的思考法には大きな限界があることがわかってきた。
 その限界とは、この二分的な方法は、
 自己の内部に生成する心の働きであるために、
 自己から切り離した形で示すことのできないものには、
 使えないということです。
 
 例えば、意味、価値、美、倫理、責任感、市場などがそれです。
 また、私たちは、生物と生命とは
 異なった概念であると考えていますが、
 生命は自己から切り離すことができないために、
 自他分離的方法(科学的方法)によっては、
 解明できないと考えています。
 自他分離的方法を使って、自己を強引に表現しようとすると
 カメラで写真を撮ろうとしている自分自身を、
 同じカメラで自分が撮ろうとするときのような状態になるために、
 鏡でも置かない限り、うまく行かないことになります。
 
 ・・・・・・
 
自己成長や、そのスキル、ノウハウに関することは、
大抵、ひとりの自己を相手に考え方を発展させる傾向がありますが
実は、人間を捉えるときには、
やはり「関わりの中で捉える」のだと思います。
 
これは、コーチングの大前提になります。
 

2006年03月15日

自分と自分以外のもの

ポジティブ・シンキングとか、共感、感動、未来志向、
いろいろな考え方ややり方をもって、
人の成長やモチベーションを高める試みがなされています。

最近つくづく思います。
それらがなかなか定着しないのは、対象となる人と接するときに、
その人個人に、あまりにも焦点を当てすぎてしまう点に
あるのではないかと。
人はひとりで生きているわけではなく、
人が生きているということは、関わりの中に生きているのであり、
一人で生きているという前提で扱うことに、所詮無理があるわけです。
 
近代文明をつくってきた西洋の考え方の特徴は、
まず、自己と自己以外に分けて考えます。

たとえば日本語にはネイチャー(自然)という言葉がありません。
自然は、もともと「ジネン」といわれており、
たぶん、ネイチャーに対する「自然」は、
当て字だったのではないかと思います。

日本人は、自分と自然を分けて考えていませんでしたから、
山を踏破するとか、自然を守るとか、そういう発想がないんですね。

自己が自分以外のものを、客体化して、
自他分離的な考え方をしなかったのだと思います。
自他分離的な思考法には、大きな限界があります。
 
それについては、また明日、続きを書きます。

2006年03月12日

卒業式に出席しました

息子の学校の卒業式に出席しました。

時差ぼけでクラクラする頭で、
壇上のひな壇に座って、そこにいるはずの息子を探した。
やがて、そこに息子の顔を見つけると、
盛んに友だちに話しかけている。
こんな席で、何かギャグを飛ばしているのでしょうか?

先生に見つからないかとひやひやしていると、
案の定、先生に見つかった。

「ウワー、怒られるんだ」と思いきや、
先生に近いところの、もう一人、落ち着きのない子に
先生の目が行ってしまい、息子は助かった。

その後、息子は、ギャグにも、卒業式にも退屈したのか
やけにおとなしくなった。
 
まあ、あんな席で2時間近くも座っているだけで、
奇跡みたいなものですけどね、
 

2006年03月07日

グルーヴ

今日でNYに一週間います。


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いろんな人がいて、街も色んな顔をもっていて、
常にビートを打っているようで、
ここにいるとグルービーな感じです。


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東京にもありますが、昨日はブルーノートに行きました。
突然、飛び入りでゲストが演奏したり、
客席で一緒に歌うお客さんが、やけにうまくて、
何よりも、最初の一曲目が始まると同時に
プレーヤーが曲と一緒になってしまう瞬間のシビレ、、、。

ちょっと身体をゆすっただけで、もうリズムに引き込まれる。
ときどきのシャウト、、、。

なんだか、「明日も生きるぞー」、そんな感じでした。

途中で、観客全部に向けてマイクを向けて歌わせるんです。

その歌詞が、it's your life.

「そりゃ、お前の人生だろう」

これを何回も歌っていたら、なんだか、昔を思い出した。

そう、言われているような。
そう、言っているような。


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2006年03月05日

意気地なし

今日は快晴。すごく寒いです。
 
ここはNYの郊外です。

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デービッドがなぜか偶然に出張でサンタフェからNYに来ていて、
毎朝朝ごはんを一緒に食べています。
ここは、デービッドのお父さんが昔住んでいたところです。

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今朝も、フレンチトーストを食べた。
思いっきり、メープルシロップをかけた。

思いっきりのつもりだったけど、息子はもっとすごかった。
メープルシロップで、フレンチトーストを泳がせていた。
それに、シナモンもかけている。


俺って、意気地なしだ。

2006年03月04日

安心 関心 行動

なぜコミュニケーションか?

という話の中で、コミュニケーションを交わすことで、
手にするものはいくつかあるが、そのひとつは「安心感」。

安心感が大きくなればなるほど、物事への関心が高まる。
そして、それが行動へと結びつく。
人は不安になると、自動的に
次の不安因子を探してしまう傾向がある。

反対に、安心の醸成があれば、外に目を向け、
新しい可能性を探求しようとし、
自発的に行動に移ると思うというようなことを話します。

その反対側には、マッチポンプ。
不安がらせて、その逃げ道を用意し、そこに誘導する。
たとえば、勉強しないと、、、。
営業成績が悪いと、、、。

脳の中の人生 茂木健一郎著の中、
ジョン・ボールビーという心理学者が紹介されています。

彼は子どもの中にあるチャレンジ精神が発揮されるためには、
一定の条件があることを、明らかにしました。

2006年03月03日

これから求められる人

「これまでは、記憶力。これからは、
コミュニケーション能力であるとか、創造性。
単純に記憶を再現するということよりも、
自分の体験をいかに整理して
いかに新しい意味を見出すかということが問われてくる。」

こういうことが言われて久しいのですが、
そろそろ本当になりそうです。

「コミュニケーションが大事ですよね」

なんて言っていればいい時代ではなくなる。

本当にコミュニケーションを交わさないと、
始まらなくなるんだと思います。

これまでのように、権威や役割で、
コミュニケーションをなんとかできなくなるのだと思います。

今、ニューヨークに来ています

今、ニューヨークに来ています。
雪です。

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去年の今頃はサンタフェにいて、
サンタフェで大雪に見舞われ、
足止めをくってしまったのでした。
昨年は1日遅れでニューヨークに来ました。

今年のニューヨークは、最初から雪です。

しかし、なんですね。
毎日カロリーの高いものを食べていると、寒くありません。
日ごろ鍛えた皮下脂肪は、今日のためのものだったんですね。

ごきげんクリニックの先生は、
節制して、やせてきて、それを自慢していますが、
今、ニューヨークでやせている人なんていません。

この冬、「私はオーバーいりません!」

これが流行です。

今日から、フレンチフライはもう食べない。
チョコレートも食べない。

日本から持ってきた甘納豆だけにする。

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2006年03月01日

そもそもコミュニケーションなんて

私たちは、コミュニケーションを交わしていることになっています。
しかし、コミュニケーションが交わされていないという前提に立つと
いろいろと見えてくるものもあります。
 
コミュニケーションと、会話は違います。
コミュニケーションの目的と、会話の目的は違うからです。

コミュニケーションは、それを交わす相手に
「要求」していますが、会話にそれはありません。
 
「もっとコミュニケーションが必要だ」とか、
「もっと効果的なコミュニケーション」、

こういうのは、前提が違う。

だいたい、コミュニケーションなんて交わしたら、
それはのっぴきならない状態になる。
または、予想もつかないことが起こってしまう。

毎日平和なルーティーンを繰り返しているところに、
要求を突きつけられたり、質問されたり、
知りたくもない情報を送られたり、提案されたり、
だいたい、コミュニケーションなんて交わしてしまったら、
とにかく何か行動を起こさずにはいられなくなる。
 
私たちが求めているのは、昨日と同じ今日ですから。

とくに権力者はコミュニケーションなんて交わしたくない。
立場があやうくなるから。
ソクラテスなんて、ギリシャにだけいればいいわけです。
 
こうして、よくよく見れば、
コミュニケーションなんて、
およそ周囲に見当たらないことに気がつきます。

会話はありますよ。
でも、コミュニケーションはどうかわからない。
 
言えるのは、コミュニケーションなんて交わしたら 
危ないということです。
でも、コミュニケーションを交わさなければ、
何も新しいことなんて起こらないということです。
 
新しいコミュニケーションのなんとかかんとか。

そんなものはない。

コミュニケーションは、ただ、あるか、ないかだけなのです。

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