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2006年04月25日

勉強会

以前NHKで、90歳の経営者が紹介されました。
彼のところで仕事をしている人たちの中には、
60歳、70歳の人たちがざらにいます。

当然、身体も以前のようには利かなくなるし、
会社や同僚に迷惑も掛けられないということで、
彼らは会社を辞めようとします。

すると、90歳の経営者は、社員が疲れないように、
自分のペースで仕事をするように勧めます。
結局、彼は社員を辞めさせないのです。
辞めようとしていた社員も仕事を続けます

その社員に聞きました。

「奥さんは、なんて言っていますか?」

彼は言いました。

「『あなた、仕事に出かけるとき、楽しそうよ』って」

「幹細胞(何にでもなれる細胞)」は、
単にコミュニケーションによって、心臓や肺になるわけではなく、
その「場」を読むということを前回書きました。

「場を読む」

それだけではなく、場を、他の細胞と共に
創っているともいえます。

彼が会社に出てくることで
彼は会社に何かをもたらしているわけです。
もちろん、彼も影響を受けるわけですが。
 
チャップリンのモダンタイムスでは、
そこに仕事はあっても「場」がありません。
場に影響することはないわけです。
そうなると、人間も機械の一部になってしまいます。
 
毎日、会社に通う。
とっくに定年を過ぎた彼は、一緒に働いている人たちと仕事をする。
それだけではなく、お互いに
生きるということについての「意味」を自覚する。
 
以下は清水博先生の『場の共創』からです。
 

2006年04月20日

勉強会

昨日は、会社で勉強会がありました。
東海大学医学部の安藤先生のお話を、
スタッフみんなで聞きました。

テーマは、「再生医療について」。

簡単に言うと、簡単じゃないのですが、

「幹細胞」

これがキーワードになります。

細胞には、最初から用途の決まった細胞、
たとえば、肝臓とか、目とか、歯とかになるように決まった細胞と、
何にでもなれる「幹細胞」があります。

その「幹細胞」を、脳や、血管、心臓、筋肉など、
問題のある場所に送り込むことができれば、
そこで、幹細胞は、脳や心臓や血管となる、
つまり、再生することができるという話です。
もちろん、こうしたことは、すでに行われています。

それで、いくつか疑問が起こります。

幹細胞を心臓の細胞に変えるためにはどうしたらいいのか?

ひとつには、サイトカインという情報を送って、
「心臓の細胞になりなさいよ」、そう伝える。

もうひとつは、幹細胞は「場」を読むのです。
「ここでは、心臓の細胞になるんだな!」
つまり、コンテクスト(状況的な意味)を読むわけです。
それで、心臓の細胞になる。
 
つまり、コミュニケーションは、
単にAさんと、Bさんの間で起こっているわけではなく、
「場」を自覚しながら交わすものだということなんですね。
 
言っていることは確かにそうなんだけど、
「違うなー」なんて思うことがあります。

違うことを言っているんだけど、
「何かあるんだなー」なんて思うこともあります。
 
最近、

どうして会社をやっているんだろう? 

とか

どうして人が集まる場所がすきなんだろう? 

なんて考えるんですが、それについては、また明日。

2006年04月16日

日曜日

最近、土曜日とか、日曜日とか、それだけで嬉しい。

今朝は、朝起きて、いただいた文旦を食べて、
それから、ゆで卵を2個。
それに、焼きおにぎり。

それですごく幸せな気分だ。
 
3チャンネルで将棋を見るんだけど、
ほとんどあれは催眠術。

制限時間があるので、途中からカウントダウンが始まる。

「20秒、10秒、1、2、3、、、」

気がつくと、勝敗はついていて、
解説者があれこれ喋っている。

詰めの一番いいところで、必ず催眠術にかかってしまうのです。

「ぐー」
 
これで、3チャンネルだから寝れるんだろうね。
2チャンネルだと、寝れないらしい。

2006年04月07日

卒業式

先々週の土曜日は、大学院の卒業式でした。

s-sotsugyou.jpg

2年間、たくさんのレポートを書いて、論文をひとつ書きました。
本もいろいろ読みました。

本を読むのは確かに勉強になります。
自分では読みそうもない本も、読む機会がありました。
 
そういえば、MBAを取ったアメリカの知人が言っていました。

「要するに、ひとつのテーマについて、リサーチしたり、本を読んだり、
それも確かに大事だけど、それについて、教授を交えて、
とことん議論したり対話したりすることをを通して学ぶことに、価値があった」
 
もともとお勉強は、読書、リサーチ、そして対話によって
成り立っているのだと思います。
いつの間にか、対話や議論はどこかへ行ってしまった。

実際、対話や議論は、限られた論理的な人たちの独壇場のように思われてきた。
でも、論理的だけど感受性の低い人たちというのはどうなるんでしょうね。
 
対話や議論の場面で、

「それは、なんとなく腑に落ちない」とか、

「あなたの言っていることはそうなんだけど、
なんとなく気持ちがついてゆかない」

なんて言ったら、ここに感情を持ち込むなといわれて、
ジャンジャン、なんでしょうかね。
 
知性が理性だと、デカルトが言ったんでしたかね。
でも、最近わかってきたんです。知性だけが理性ではないと。

脳科学者の茂木健一郎さんの『脳の中の人生』には、
アメリカの神経科学者、アントニオ・R・ダマシオ博士の話が紹介されています。
ダマシオ博士は、私たち脳の中で情動系を司る部分は、
内臓から多くの情報を得ていて、
そのはたらきが、「これはいけそうだ」「これはだめそうだ」と
いう人間の直観を支えているというのです。

これはいけるとか、いけないとか決めているらしいということに。

つまり、感受性の低い論理的思考を振りかざす人は、
正しいが状況に合わない考えを押し通してしまうらしい。
出だしから間違うのかもしれません。

豊かな感受性を持っていることは、幸せの条件ですから。

有名な人とか、特別な人にならなきゃいけないなんて、
思わされてはいけません。

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